RE-READING (5)

2013年5月20日 | category: speaks


ロバート・フランク「The Americans」の町-3

柳本尚規

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「The Americans」に写された地域は、一枚一枚の写真を実際の地図上にマーキングしてみると6カ所ほどに仕分けられる。

一つはニューヨークとその近郊。二つ目は東海岸南部のフロリダも含むカロライナ州のあたり。三つ目は中北東部とでも呼べばいいのだろうか、オハイオやイリノイの穀倉地帯。四つ目は中西部・南部のニューメキシコとかテキサス、ネブラスカの方だ。五つ目はカリフォルニアの西海岸。六つ目がカナダとの国境に近い西北部のモンタナ州の方である。

もちろんこれはマーキングの目立つところを雑に群れ化してみただけでこうするだけでもアメリカはなんと広く、そこをくまなく旅することの困難さをあらためて思わせられる。またそれに要する時間たるや、かりに私が夏休みのような長い休暇を使ってアメリカをくまなく旅する計画をトラベルエージェンシーにつくってくれと頼んでみても、私が想定する<長期>の感覚などを数倍越えるに違いない。

ちなみに、フランクはアラスカとハワイへは行っていない。アラスカとハワイが州になるのは50年代の終わり頃だから、フランクが旅した合衆国はまだ48州の時代だった。もちろん日本もまだ入っていない(冗談)。

旅は大統領選挙が過熱する時期だったことは前回書いた。そして写真集の配列は旅移動の順番に編集されたものでないことは分かっていても、あたかもそれが旅に順序だったと思わせるような感じになっているのは、フランクの頭の中で旅が編集されているからだろう。アメリカの<今日>が行く先々の印象によって増幅され、結果、増幅をもたらすような劇的な旅をした、ような印象をもたらしてくるのである。

写真集は、いやフランクの旅は、ホボケンからシカゴ、サウスカロライナ、デトロイト、ジョージア、モンタナと続く。

フランクの目には、どんなシーンの誰もが、自由と孤独を等分に秘めている人々だと見えているかのようだ。そしてその孤独さは、自由のずっと上方にある国家の成層圏ともいえるような管理圏に包まれて生きている運命へのあらがえない諦観に源がある、と映っているようにみえる。

実際、80数点の写真の中で、笑顔が写っている写真は2点しかない。それもテレビスタジオのキャスターの仕事上の笑顔と、上流層の人々のパーティーと思わしき参加者の中の愛想笑いのような、そんな類いの笑顔しかない。

他にもあらためて気づかされることがある。

それはフランクの写真に、都会と田舎、または都市と地方の比較をもくろむ視線がまるで感じられないことだ。なぜこんなことにあらためて気づかされることを思うのか。

1950年代の日本の写真を概観すればそれは分かる。そこに見られるのは前衛と後衛への分離した見方の多さである。新しい状況を追う視線と失われつつある古いものを愛おしむ、というより観光的な視線から見る、または両者を対比してみる、そういう雰囲気の写真作品で横溢していることが分かるだろう。

モダンな都会を描写する一方、リアリズム写真と言われた社会の<影>を見る趨勢があり、私はそのどちらも「絵解き」とでもいう、写真固有の言葉にはまだ無関心で伝統的な文字を写真に置き換えただけというような表現に感じて、ほとんど血が騒がなかったことを思いだす。

ということはつまり、フランクの写真にそれとは対極的な、「写真」という言葉だけが立ち入ることができる世界を指し示されているのを感じさせられていたということになる。

「アメリカ人」の中のアメリカ人はみなおしなべて不機嫌そうだ。

同じ頃のいろんな人の写真を編集した「フィフティーズ」という写真集があるが、そこには日本版「三丁目の夕日」のような<愛と希望>の社会像が横溢している。

それにくらべて、フランクの写真には、ということになるが、この写真集が当のアメリカ人たちに不評だったのはむべなるかなと分かる気がする。

もう一度確かめておこう。フランクがこの写真にまとめられることになる撮影プロジェクトへのグッゲンハイム財団に対する援助申請の趣旨である。不評の源をここに見ることができる気がしてくる。

「私の意図しているのは、アメリカに帰化した人間が、合衆国に見出した、この地で生まれ、よそに広まろうとしている文明の意味するものの観察と記録である。

それは何かといえば、アメリカにあり、どこにでもあり、あらゆるところにあるもの―見つけるのは簡単でも、容易なことでは選択・解釈しきれないもの。

心の目には小さな図録が見えてくる。

夜の街、駐車場、スーパーマーケット、高速道路、車を三台持っている男と一台ももっていない男。農婦とその子どもたち。新築された家と羽目板のひしゃげた家。趣味のおしつけ、華々しさを見る思い、広告、ネオン、指導者たちの顔と追随者たちの顔、ガス・タンク、郵便局、裏庭・・・・・・・・・」

笑顔もまた真実だが、私たちはただ空を見て笑わない。笑うとは何かへの反応である。ふと自分が自分だけでいるとき、私たちは笑わない。フランクは淡々と自分が自分だけでいるときのようなアメリカを見つめる。だから「笑顔」は写されていないのだと思う。

さてちょっと脇道にそれたかもしれない。急いでサウスカロライナの町へ進もう。