2012年5月22日 | category: speaks
メイプルソープが死んだのは、去年(1989年)の3月9日だった。私はそのことを深夜だったか早朝だったかのパソコンデータ通信のニュース画面で知ったので、いっそう印象に深い。
機械音痴なくせに流行り好きで、ろくに使いこなせないデータベースに四苦八苦してアクセスしていたその時に、不意にという感じで、「エイズにおかされていたアメリカの著名な写真家メイプルソープ氏死去。42歳。」という一行が目の前をスクロールして行った。
私はメイブルソープに特別な感慨をもっているものではないが、一人の写真家の死がデータ通信のニュース画面のニュース速報で世界中に配られていることに感概をもった。それは写真家のというよりはエイズ患者の死を写真家の著名さを借りて躊躇なく表すことのできる機会だったのかもしれない。
スーザン・ソンダグは、エイズは疫病として語られ人間の道徳的退廃への罰という隠喩になっているといった。写真家メイプルソープへの関心と彼自身の名声は、そうした隠喩の現れだといえるのかもしれない。しかし、だとするとそうだからこそ、メイブルソープは80年代の秘儀めいたヒーローとして伝説化されることになったにちがいない。
メイプルソープは、ヒーローであると同時に異端の写真家として知られている。その後者の方については、メイプルソープの回顧展の開催が、国会議員からの「政府予算をポルノの援助金として使う必要はない」というクレームによってついに中止に追い込まれたという顛末からもうかがうことができる。
たしかにメイプルソープは、「ポルノグラフィーをアートにした」と語って有名になった。たしかに彼はタブーとされていたゲイの性を赤裸々に表して風評の的になった。しかし一方で、禁忌の対象として隠微に打ち捨てられていたポルノグラフィーに真っ向から挑んだ写真家としてヒーローとなった。メイプルソープは、そのもっとも俗悪な性のイメージを躊躇することなしにまず表し、そこに透かし見ることのできる美意識の形を取り出して多くの肖像写真を撮影し、さらにその形を昇華させて花に向った。その軌跡は、メイプルソープの内にはじめから潜んでいたただならぬ美意識の強さを表し、その美意識を完全に表す主題をもつことの出来た才能をあらためて教えてくれる。
メイプルソープは1946年、ニューヨークのロングアイランド生まれ。高校を卒業するとプラット・インスティテュートで美術を学んだ。写真を始めたのは70年代に入ってからだが、それは最初、当時手掛けていたコラージュ作品の素材を作るためにで、ポラロイド写真だった。最初の個展はそれら素材作りに始まったラロイド写真による作品の「ポラロイド」で、76年に開かれた。しかしそれはまだほとんど話題にされなかったといわれる。メイプルソープが勇名を馳せるようになるのは、その翌年に開かれたゲイの世界を写した個展、「セックス」でである。メイプルソープはセンセーショナルな写真家としてまず人々の中に定着した。
83年につくられた写真集「Lady・リサ・ライオン」が、メイプルソープをたんにセンセーショナルな存在というものから、新たな美意識の唱導者としてのイメージをたかめることになった。もっともこの作品はフェミニズムという社会現象のもとに愛されただけだという指摘もあり、現に今となってはメイプルソープの作品を代表するものではなくなっている。しかしそれでも、彼はこの写真集によって、自分の内に潜んだ美意識の具現化の一つの様式をわがものとした。その捷式がいっそう先鋭、精巧となるのが、黒人のヌードシリーズである。それはまるで彫刻のよに様式化されて表され、そしてフェティシズムに溢れるシリーズである。
いっぼうメイプルソープにほもう一つの作品群がある。それはアンディ・ウォーホルが主宰する「インタビュー」誌の依頼によったもので、これは彼の作品の中で唯一社会化された写真群として興味深い。もっともここでも、彼のポートレート写真は、モデルをオブジェ化する視線で充満している。 そしてメイプルソープの美意識が明らかな様式に昇華されで行く軌跡が、「花」のシリーズによってつくられるのだ。
「花」のシリーズはメイプルソープの生涯を通しての主題の一つだった。はじめから彼は花を多く撮っているのだ。そしてエイズが進行して車椅子の生活を余儀なくされるようになると、ほとんどの写真撮影が「花」、となった。 いうまでもなく、メイプルソープの花は極端に株式化されて、屹立した美しさを漂わせている。それはもちろん私たち日本人の風媒花美学に根ざした花感覚と異なり、性の存在を沸厚に強調した虫媒花としての花へのまなざしに富んでいる。
加えて写真史の中での長い主題の一つである「植物造形」写真の系脈、例えばイモジン・カニンガム、ファイニンガー、さらにアービング・ペンらのボタニカル・フォトグラフイーとも大きく異なるシリーズである。メイプルソープの、美意識を様式に昇華させたい欲望は、「花」のシリーズによって確かめられて成就した。晩年、彼はヌード写真にほとんど興味を失っていたといわれる。メイプルソープは、自分の肉体と精神に宿った特異な美意識が、花によって同一化するのを感じたからだろう。
その意味で、彼の生涯は短かったが、精神の頂点に達して死んで行った写真家だった。
(「すばる」1990年12月号所収)
★これを書いた1990年は、私がはじめてニューヨークを訪れた年だ。西海岸のサンフランシスコのようなアメリカは好きだったが、ニューヨークへは関心がなく、そっちの方までは行ったことがなかった。それが大学の仕事としての出張でニューヨーク、ピッツバーグ、ボストンなどをめぐることになって、はじめての東海岸となったのである。 ニューヨークの街は衝撃的だった。もっと早く来ればよかった、と後悔した。私はずっとフィレンツェとか北イタリアが好きで、要するにイタリアマニアだったのである。それはそれでいいのだが、ニューヨークはそれまで(ささやかな体験だが)行ったどの街とも比較の対象にならない街で、無視していた自分の無知が残念でならなかった。
ニューヨークではメイプルソープが学んだプラット・インステュートにも行った。メイプルソープのことで行ったのではなかったが、プラットで会った教授から学生時代のメイプルソープの話を少し聞かされたので、彼が生活費を節約するためにバスに乗らずに歩いて通っていたという、猥雑で少し恐ろしいブルックリンの一角の街筋を私も歩いてみたのだった。教授が言うには、その道すがらの怪しい店のショーウィンドウのこれまた怪しげに隠微な写真を目にして歩く日常がきっとメイプルソープの何かを目覚めさせたに違いない・・・・と。そうかもしれないなと納得するに十分な私にはちょっと縁遠い道筋だったことを思い出す。
メイプルソープの死を、パソコン通信で知ったと書いているが、日本はまだインターネットの時代ではなかったことが確認できる。アメリカで、名刺を交換すると、相手のそれには必ずアドレスが記載されていた。私が@マークのついたその文字列のない名刺を渡すと、相手はちょっと困ったような表情を浮かべた。
そんな体験から、メイプルソープがそれまでより近しい関係に思えていたときだったのだと思う、この原稿を書いたときは。しかし、いま、メイプルソープはほとんどもう話題にならない。注目を浴びたことこそに私は疑問を抱いていたが、やはり彼は何かを語るための具にされた写真家だった、という思いがいまになって確かめられる。わっと話題になる表現はいつもそういう傾向が強い。
私はいまになって、メイプルソープの孤独感を、想像している。いや、再録にあたって彼の寂寞とした気持ちを推し量っていたことを思い出した。
(★ re-recording / May.2012)
<RE-RECORDING>