2012年3月28日 | category: speaks
「ON READING」。小さな写真集だが、私にとってはこの写真集ほど愛着深いものはない。
話題だからとか、見ておかなければならないものだとか、何らかの形で身につけることを目当てに本を買うのと違って、この小さな写真集は目当てなく飛び込んできた。30数年来、私の好きな写真集の一番を一度も譲っていない。見るたびに気持ちが洗い流されるような感じになる。ずっと同じだ。
それなのに、いつどこで手にしたのかを忘れてしまっている。こんな大事なことを忘れてしまっていることには罪を感じるほどだ。ページの最後にでも鉛筆で購入日時と書店名くらい書いておくべきだったと後悔しているがあとのまつり。そのくせ、表紙裏には当時凝ってつくった四角い蔵書印が傾きもなく綺麗に捺してある。
蔵書印は、これは絶対手放すまいという意志の印だ。捺してある写真集はそんなにはない。それなのに思い出せないなんてとまた情けなくなる。しいて憶測をしてゆくと、この本の発行年が1975年だからそれ以降であることはあたりまえとして、それから間もなくであったことは間違いないと思う。
写真の潮流が大きく変わり始めていた時期で、だからこそこの写真集が目に飛び込んできたはずである。
場所は・・・・、60年代は写真集といえば銀座のイエナ書店くらいしかなく、日本橋の丸善も新宿の紀伊国屋も渋谷の大盛堂も、写真集に関してはほとんど品揃えがなかった。もっとも丸善は東光堂書店やオリオン図書とともに大学図書館などには出版情報と新刊図書の実見を提供していたが、東光堂とオリオンには一般客相手の店舗がなく会社に行くと物品棚にうず高く積まれた建築やデザインなどのビジュアル本の中に若干の写真集を発見できたが、いつも手にとって見られるところといえばイエナ書店しかなかったのである。
80年代に入ると青山のワタリウムの前身である「ギャラリー・ワタリ」隣に「ON SNDAYS(オンサンデーズ)」ができたり、渋谷のパルコの中に「ロゴス」ができて輸入写真集が並ぶようになったが、それは写真集の刊行そのものが急速に増加していった時代背景によるもだ。イエナだけの頃は、写真集自体が少なかった。
そういう思い巡らしをしていると、写真集は少なかったが、私たちが目にする写真集はみなどれもが素晴らしかった。素晴らしいものしか出なかったからかもしれないし、素晴らしいものしか輸入されてこなかったかもしれない。書店自体が優れた目利きのシステムであったかもしれない。
くらべて、というのは後ろ向きになるようで余り口にはしたくないが、昨今は大型書店ともなれば写真集の占める棚も多い。しかしまさに玉石混交。自分で選びなさいという、情報のシャワーの体裁である。けれど私たちの目はそんなにいつも優れてはいない。選ぶ目の不足がたくさんの写真集をもたらしているという皮肉もまた言いすぎとはいえないだろう。
本題に戻るが、ずっと私はなんとなくアンドレ・ケルテスという写真家の写真が好きだったのである。
はじめて知ったのは多分、「世界写真全集」によって、である。これは1956年から59年にかけて平凡社から刊行された日本でははじめての系統だった写真全集で、全7巻に編集されていたものだった。編集委員は、伊奈信男(いなのぶお)、金丸重嶺(かなまるしげね)、木村伊兵衛(きむらいへい)、滝口修造(たきぐちしゅうぞう)、原弘(はらひろむ)、光吉夏弥(みつよしなつや)という日本の写真の現代化にいたる道筋をきちっと論じて大いなる啓蒙を果たした見識家ばかりであり、装丁・レイアウトはもちろん原弘氏が担っていた。
ケルテスを知ることになったのはこの本によってだったことは間違いない。しかしいまあらためて開いてみると、ケルテスの写真は「アメリカ I」編のなかにわずか2点の作品しか収録されていない。それもケルテスの代表作であるとはいえ、私を魅了した写真とは違っていた。
そう思って、ではどういうことがきっかけになったのだろうと思い続ける。するとそこにゲルンシャイムの「世界の写真史」という一冊が頭に浮かんだ。ボーモント・ニューホールの「世界の写真史」も思い浮かんだ。写真の歴史をはじめて教えてくれた本である。私はこの両著によって写真は技術史の標本であることを知った。時代が技術を求め、創出された技術が新しい感性を刺激し、価値観の変化にも関与してくることを知った。このことにはまた触れなければならなくなるだろう。それにふさわしい本についてを話題にするときにあらためて書くことにしよう。
けれど、ゲルンシャイムのにもニューホールのにも、ケルテスについての記述はほとんどなかった。なぜなんだろうか。と、書いてこんな疑問を持ったことの一度や二度ではなかったことを思い出した。ゲルンシャイムやニューホールの時代には、まだケルテスは眼中には入れられていなかったのである。
そういうことはよくある。しかしほとんど同時代、先に揚げた「世界写真全集」では少々とはいえケルテスのページがちゃんとあった。これはきっと、ケルテスの複雑な経緯に原因があるのだと思う。ドイツ人のゲルンシャイムはヨーロッパを中心に、アメリカ人のニューホールはほぼアメリカ一辺倒に写真史を概観していて、それはそれで視点をどこに置くかによって歴史の見え方も違ってくるということを考えさせられて面白いのだが、このこともまた別の機会に書いてみることにして、日本オリジナルの「世界写真全集」の見識には目を見張るものがあるとあらためて感心させられた。この編集委員の一人、光吉夏弥さんはずっと一貫して日本の写真界にあって啓蒙的な役割をしてきた方で、翻訳家にして絵本研究家、舞踊研究家しても大きな活躍をされた方である。とりわけ絵本の分野では「岩波の子どもの本」絵本シリーズを創立し、後に人種差別の指摘を受けて絶版となった「ちびくろ・さんぼ」の翻訳者、といえば懐かしさを思う人も多いだろう。そしてこの光吉氏が70年代の半ばにじつに丁寧な「 Who’s Who-20世紀の海外写真家」という脚注のように的確な写真家紹介を「アサヒカメラ」誌上に続けたものがあるのだが、そこにはしっかりとケルテスの項が確保されていた。
ケルテスはハンガリーのブタペスト生まれ。30歳のときにパリに出て写真家になった。かのブラッサイの写真の師とも言われ、カルティエ=ブレッソンをはじめとする若いフランスの写真家たちに大きな影響を与えた。そしてアメリカのエージェンシーに招かれて渡米、しかし第二次世界大戦の接近でハンガリー国籍の彼はフランスへ帰れなくなる。で、アメリカにとどまることになったのだが、それが不遇の始まりだった。ケルテスが「写真ジャーナリズムの世界に迎えられなかったのは、かれのルポルタージュがあまりに個性的で、編集者次元のアメリカの行き方とは相容れなかったからだといわれている」と光吉氏は書いている。
だが、戦争が終わると、一転してケルテスの写真は脚光を浴び始めた。1964年にニューヨーク近代美術館で開かれた回顧展がケルテスの評価を決定づけたといわれている。
つまり、とすると私がケルテスを知ったのはケルテスの再評価がすでにしっかり確定してからのことだったということになるか。とはいえ、まだその全体を知る機会は、そういう写真集が日本に紹介されるまでには少し時間がかかって、60年代の後半になってようやくちらほらと目にできるようになったくらい。そして時をおかず、ケルテスの写真集は幾つも順に輸入されはじめて、洋書専門店の営業担当者が大学の図書館などに持ち込んでくるようになったのである。
そうだ、私が東京造形大学の教員になって(1972年)、定期的に回ってくる丸善かオリオン図書の担当者の新刊箱の中にケルテスの写真集を見つけた、店頭からではなかったようだ。
それ以来ひそかに「これは私の写真家だ」と思うようになった。幸いなことに、まだケルテスを知る人は少なかった。あまり知られていない秀逸を私だけが知っていると思うことは至福である。
ところがその至福は長く続かなかった。1978年に出た「世界の写真シリーズ」(クイック フォックス社刊。ただし現在はもうなくなっている会社。このシリーズはアメリカのアパーチャー刊の日本語版だった。)の「アンドレ・ケルテス」の巻の表紙帯の奈良原一高氏の推薦文によって、壊されてしまったのだ。美しい文章で、ああこんなにもケルテスの写真を見ていた人がいたんだと感心して、たった一人の喜びは終わってしまった。
「歴史の奇妙なめぐり合わせの中で、ケルテスの写真は長い間眠っていた。しかし、ひとたびそれが再発見されると、驚きと化した。移ろい易い人生の不思議に切ない表情やもどかしさが不死鳥のように時間をたたえながら微笑している。そのように、ケルテスの写真ははじめから成熟していて、世界がやっといま、その写真に追いついたのだ。」
(手にした経緯にようやくたどり着いたが、肝心の本の中身にまでは触れられなかった。大好きな写真集のことだから、これに限ってだけは次に続かせてもらいたい。)
2012.3.27