2012年6月23日 | category: speaks
ジョエル・メロヴィッツの写真を特徴づけるのは、もちろん美しい色彩である。いやゆったりと横たわる時間の感覚である。自分の前を時間が、光が過ぎ去ってゆく。そのうつろいはとめようもないが、しかしできるだけ記憶しよう。そのようなまぼろしを追い求めるかのようなかれの意思が、写真には溢れている。
メロヴィッツの写真にはアイロニーとかあるいは環境への特別な視点がない。日常を見る眼差しが強くただよう。しかし私たちはその平明な眼差しの奥に、この写真家の「熟成した思い」を見出すことができる。メロヴィッツは六〇年代以降の現代写真の流れを一身で体験してきたような写真家なのだ。
かれは「ニュー・カラー」派の一人として登場したが、この「ニュー・カラー」派なる呼称は七〇年代に入って台頭してきたカラーで撮る写真家たちの傾向を言いあてたものだ。
それはちょうど六〇年代半ば言いあてられた「コンテンポラリー・フォトグラフィー」の続編のような趣きをもって現われたものだが、「コンテンポラリー・・・・」がそれまでの説話的な写真表現が撮り落としてきた、日常的で些少だがしかし噛み締めて味わうに値するものに目を向けたものだったとすると、「ニュー・カラー」はそれをさらに平明で本当の日常の感覚に推し進めようとした意思の所産だ。「ニュー・カラー」派は、「コンテンポラリー・・・・」にしてもまだ残っていた写真の哲学、すなわち白黒写真を前提とした哲学で、色彩を無視し色彩の背後にある真実を感じとろうとする訓練を積んだものの哲学を、もっと押し広げようとしたのである。
つまり「ニュー・カラー」派の写真家たちは、古くはアジェを、そしてウオーカー・エバンスなどの「コンテンポラリー・・・・」の源流となる名作を、あるいほ同時代同世代の「コンテンポラリー・・・・」の人々、フリードランダーやウィノグランドの名作に学んで、「ニュー・カラー」派に転進したのだ。
メロヴィッツは一九三八年ニューヨークに生まれた。オハイオ大学では絵画を学んだが、卒業後はニューヨークに戻って広告ディレクター、デザイナーとしての活動を始めた。しかしまもなくロバート・フランクと出会い、それがきっかけとなって六二年にはそれまでのいっさいの仕事を断ち切って写真家に転向した。はじめはカラースライドを撮っていた。だが直ぐに白黒写真を撮り始め、六四年から六七年にかけては、全米とヨ一口ッパの撮影旅行に費やした。七〇年には「余暇」についての考察をテーマとした制作に対するグッゲンハイムの奨励金を受け、再び全米をまたにかけた撮影を七四年まで継続した。メロヴィッツのこうしたテーマとテーマに取り組む方法はフランクのそれを彷彿とさせる。フランクもまた五〇年代の全米を、熱い共感といやしようもないストレンジャーの寂寥感をもって旅したのだった。フランクの「アメリカ人」を、メロヴィッツも頭に描いていたのに違いない。しかしビートニクの世代感覚を横溢させた「アメリカ人」の時代は既に終わっていた。
メロヴィッツの関心は次第にストリートの人々から、人々の時代を包みこむ総体的なものへと変わった。建造物や光、そして空気感や空間感といった、内的なイメージと深く関わりをもった目には見えないものへも、関心が移行してゆくのである。
そうした関心の先に写真集「ケープ・ライト」(七八年刊)や「ア・サマーズ・デイ」(八五年刊)を生み出すコッド岬の生活(ヴァカンス)があった。
メロヴィッツの写真はこのコッド岬の生活によって、何のケレンもなく素直に自分自身の日常と一致することになったといえる。
8×10インチサイズによるメロヴィッツの海辺のシリーズはこうして七六年の夏に始まった。
「ニュー・カラー」派は白黒写真の哲学を引き継いでいるとさきに書いた。メロヴィッツももちろんそうだとも書いた。
メロヴィッツはプリントをすべて自分の暗室で行なう。撮影には、ネガタイプのベリカラーの長時間露光用に設計されたフィルムを使う。これはもともと人工光用にバランスされているフィルムだが、メロヴィッツはあえてこれをそのままにして使う。不自然な色の偏りは暗室のプリントの際に補正しているのである。
それというのも、メロヴィッツは、自然の色彩とア−ティフィシャル・ライト(人工光)との「競演」を好んで仕組む。このような企画の演出には、自然光である青味を強く感応して人工光をノーマルに受けとる特性を持ったフイルムが、光をあえかに描出する効果を発揮するのだ。メロヴィッツの写真の独特な美しさの秘密はここにある。
「ア・サマーズ・デイ」はマサチューセッツ州南東部のプロビンスタウンを中心としたコッド岬の夏を、一九七七年から八三年にわたって撮った七年間の夏の生活の記録である。メロヴィッツはこの岬のシリーズの作品によってはじめて家族もその画面の中に登場させることになった。
単純に緯度を延ばせば、日本なら襟裳岬に相当するこの北の岬で、メロヴィッツは、噛み締めるべき日常を発見したのだ。(「すばる」1989年8月号所収)
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Joel Meyerowitz−メロヴィッツはいま、マイエロヴィッツとかマイヤーウィッツといろいろに発音されるが、この小文を書いたときは本人が自分を名乗るときに聞こえる音に一番近いからとして<メロヴィッツ>と表記した。近頃は<マイエロヴィッツ>としたほうが多くの人には伝わりやすいようだが。
読み返すとちょっと雑な文章だなと恥ずかしくなるが、この写真家についてもメイプルソープ同様、この頃はあまり人の口にのぼらなくなったので、うつろいやすい話題の一例として再録してみることにした。
メロヴィッツの私たちにもたらした影響はとても大きい。あえかな光が写ったメロヴィッツの写真には、いつも撮影者の目の存在を感じさせられたものだ。花鳥風月的風景写真とは違って、乾いて、距離をおいて、細やかな美しさに目を凝らすその写真に、私はふうっと息をふかされるような、なんともいえないカタルシスを覚えさせられたのである。
メロヴィッツにまつわるさまざまなエピソードもまたよかった。
上半身は裸で、短パンをはき、ずた袋に大きな8×10のカメラと数枚のホルダーを無造作(これは想像だが)に入れて、三脚ももちろん持って、コッド岬の処々で一日にたった数回のシャッターを切る、と伝えられた撮影の所作にも憬れた。あのディアドルフを無造作に、というのである。
ディアドルフは90年代に製造中止になったが、このカメラをずっと使っている写真家の三好耕三氏は中止を見越して生涯使えるようにとスペアを特注してまで<武器>を守っている。それほど熱烈な支持を受けたカメラだったが、私にはまるでトラクターのようで、美しいなと惚れ惚れとしてみるばかり。
メロヴィッツはまさにアメリカ東海岸の香りを漂わせた、ハイセンスな写真家である。そういう人とフランクのような写真家が心を通わせているというのもアメリカらしい。
メロヴィッツそのものへの関心は遠ざかったかもしれないが、彼の写真は間違いなく現代の写真の源流の一つである。
付け加えておきたいことがある。それは、メロヴィッツの写真はいつも乳という文字で表す色彩が特徴だが、乳白色、乳青色(という言葉は使わないが)という要するに大理石の薄い層をかぶせたような色彩が特徴だが、そうして示される質の光は、フィルムによってしか表されないものではないかということ。つまり、デジタルカメラになってからは見ることができなくなった光の写真ではないかということを、比較検討してもらいたい。
(★ re-recording / June.2012)