2010年1月18日 | category: speaks
暮れも押し迫った時期に、飛騨の高山市に行ってきました。数年来追い続けているある写真家の足跡を調べるためです。高山に生まれ育って、長じては写真スタジオを営みながら市井の生活を写し続けたその写真家の写真が私はずいぶん以前から好きで、なぜそんなにも撮り続けようとしていたのかという情熱の源が気にかかって、とうとうお願いして故人となったその写真家の膨大な量の日記を預からせてもらことになり、それを読み進むうちにやはり舞台となった高山の仔細を知らなければ解読できないと思うようになって、少し時間のあいた暮れの時期に長距離バスに乗って行ってきたのです。
滞在した四日間、じつにたくさん歩きました。たまたましていた時計がアスリート用の仕様で、そのモードの一つに万歩計も付いているのですが、毎日の歩数はいつも4万歩を超えていましたから、たくさん歩いたというのも大げさではないと思います。なぜそんなに歩いたのかというと、その写真家の壮年期である昭和50年から60年代にかけて、写真館の出張撮影の仕事と、その合間の自分の写真を撮るときのすべてが徒歩でなされていることを日記で知って、そのうちのある日を例にとってそっくりまねて移動をしてみたりしたからです。
私は日が暮れる頃になるともうぐったり、疲労もピークに達するのですが、写真家はその時間からさらに市内各所の結婚式や法事の出張撮影に出かけていたのです。そして帰ってからは現像そして焼き付けと、まさに働きづめの毎日を送っていました。タフさに驚くのは当然ですが、何よりもそういう生活を持続する緊張感にあらためて敬服の気持ちがわいてきてさらに一層その写真家への関心が増してくるのでした。
そしてほんとうの歳末と新年は仕事場のある北鎌倉で、迎えるというより高山で得た資料の整理に費やしました。除夜の鐘をつくことこそはしませんでしたが、律義に今年は新年の0時を浄智寺という小さな清楚な寺で迎え、まずは正しい?一年の滑り出しをすることができました。
そして三が日が明けるとすぐに逗子にあった故・写真家の家を訪ね、その写真家の残した作品の整理法や行く末についての相談を彼の奥さんと話し合うのですが、じつはこれがなかなかの難問で、つまり亡くなった写真家が残したネガの保存や活用の仕方を考えることが難問だと言っているのですが、つい最近までそんなことを考えることすらなかったことが、いまや現実のこととなって私のみならず多くの人の前にさあどうするといって立ちはだかってきているようです。
写真は作品であると同時に記録であることが乱暴な整理・処理を躊躇させます。新しいことと出会うことと同じくらい、古いこととお付き合いをしてゆかなければならない生活が今年もまた始まっています。
柳本尚規