2017年11月16日 | category: Teaching Staff
北野謙先生の個展のお知らせです。
KEN Kitano solo exhibition “Garhering Light”
2017年11月25日-12月24日
November 25-December 24, 2017
12:00-20:00 月曜休廊
Closed on Mondays [Tue. if the Mon. is a public holiday]
MEM
渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/T/T 3F
Tel 03-6459-3205
NADiff A/P/A/R/T 3F, 1-18-4, Ebisu, Shibuya-ku,Tokyo 150-0013 Japan
http://mem-inc.jp
対談企画
11月25日(土) 19:00〜 (参加無料)
梅津元 (埼玉県立近代美術館主任学芸員 / 芸術学)×北野謙
*トーク終了後、オープニングレセプションを開催
写真は“光が像を結ぶ”一事にかかっている。
写真家は行為者として明確な主語でコンセプトを立てて作品を制作する。ところがそれを追求していくと、自分のやったことなのに像が”立ち現れた”としか言いようのない、得体の知れない”淵”に立っているときがある。( 僕はこれを“ゆらぎの淵”とよんでいる。)
例えば、屋根の上に半年間取り付けたカメラを丁寧に取り出し、汚れを落としてフィルムを回収する。現像すると何本かに1本、うっすらと太陽の光跡が写っているものがある。それを丁寧にスキャンしてPhotoshopで調整する。すると見たことのない光跡が浮かぐわっとび上がる。無数の線は、46億年変わらない地球の公転と自転が刻む〈冬至—夏至〉の宇宙的リズムである。
「撮る(能動態)」とも「撮られた(受動態)」とも違う 「現れた」としか言いようのないこの“淵”は、行為なのか状態なのか。「する/される」の関係に集約されない主体と主語。(國分功一郎著『中動態の世界』には言葉の歴史の中で動詞が〈能動態/受動態〉の対立構造になる前の世界について書かれている。)
淵への切符(方法)が見つかった時は(少し怖いのだけど)至福である。
そしてそこから見える世界を、写真というメディウムに入れて少しでも持ち帰りたいと思う。
2017年 北野 謙